2012年3月24日土曜日

「存在・覚醒意識」>「道徳・倫理・価値観」


「存在・覚醒意識」>「道徳・倫理・価値観」  人はまた、肉体(ゼロ位置⇒無限遠を見る立場)をまとった神霊(無限遠⇒ゼロ位置に注目する立場)[or 神霊を纏った肉体]とも言える訳ですから、当然、悲しい時は悲しく感じ、楽しい時は楽しく思うのが生理ですから、そういう気持ちの側面を否定するような「とんでもない事」は述べてはおりません。ただ、某神霊も述べていたように、悲しい時に、それをわざわざ強調・促進して嘆いたり、わんわんと泣くよりも、中庸ちゅうようを目指して「哀」に留めるというスタンスになって来ようかと思います。と言われなくても人は概して中庸に落ち着くものだと思います。ただ、若い人々は判断が極端から極端へ振れがちなので、補足する必要を感じてタイプしました。とは言っても、「中庸にしなければならない」わけでも何でもありませんので。中庸の道には「発見が多いよね」と言っており、 某神霊が述べていたと言っているだけですから。(200704192040)

 それから、「若いときに方針を決定すると、後でどのような結果が出て来るのか」を述べてみます。私自身はジョージ・アダムスキーの行動指針として「組織を持たない・属さない」という単独行動主義を中学生の時に取り入れておりますが、それは私の個人的な方針・価値観であって、誰もがそうすべきなどと言いませんし、主張はしません。ただ、組織の一部ではない自由な立場であり続けたことで、「色々な危険(とばっちり)」に巻き込まれることは無かったというメリットを享受きょうじゅしたと思っております。ただ、「本当の事を知りたくない、聞きたくないし、扱いたくない」という人々によって排除されるために、� ��立を深めるという立場傾向があり、人の性格によっては決定的に不向きな人もいるかと思います。つまり、覚醒意識について述べているのは、そういう社会的な連帯や孤立とはまるで無関係の事を述べています。孤立しろとも言ってませんし、連帯しろとも言ってません。ただ、覚醒意識は最も根本的な「存在性」の事柄であり、「関係性」の事柄が中心ではないのですが、「関係性」の捉え方を中心に据えてしまいますと、「覚醒=孤立」のように捉えてしまう傾向性が出て来るでしょう。そういう側面を指して私は「本能的に…」と述べております。否定しているのではなく、単に自覚することが大切なのです。ここらへんの本能的な部分から自由でいるのは「非常にシンドイ」ことです。若い人にはまず無理かも知れません。例え� �人から仲間外れにされたりすると「大変にシンドイ」と感じると思います。それは本能的に出る感情です。普通のことです。確かに関係性の立場から見ると「孤立の話」に思えるかも知れませんが、関係性の話をしているのではないのであります。しかし、人はそういう「存在性への自覚」が持てる可能性があるので、「本能的にシンドイ状況から、自由でいられる」という側面に注意を喚起しているのです。本能性によって「引き込まれ、絡み取られ、巻き込まれる」ようなことになり難くなるということを述べています。(200704192328)

 最近、私の中を流れ行く想念を共通の視点(覚醒意識から派生する視点)からまとめるようになって来ましたので、いくつかのポイント毎に、その視点からの分析を加えてここに陳列しておこうと思います。その目的は、「知っているだけでも得をする」からです。人の性格が一朝一夕に変わるようなものではありませんし、変えようとも思わないのが通常です。しかし、本当の事を「単に知っている」というだけで、人が「とんでもない方角へ進む」ようなことを未然に防いでくれる可能性が高まるだろうと想像してのことなのです。

・[社会的認知欲求からの自己開放(解法)]にも書きましたが、人はそれぞれ、ある程度、周囲からの心理的独立性はあります。とは言っても人間ですから、心理的依存がありま� ��。何か悪く言われると頭に来たりします。特に、何も悪くない(むしろ良い)にも関わらず、曲解されたり作り話を流布されたりすると一層、怒り(悲しみ)ます。
 ここで覚醒意識から派生する考え方を取り入れてみましょう。覚醒意識は「自分で自分を認めてあげる」という派生側面があります。これは強力です。真実は本人ならば誤解しようがありません。人が悪く言ったり作り話が流れてても自分は自分で認めてあげられます。特に若い人の心は周囲社会からの認知を必要とします。本人が十分に目覚めれば自分で自分を自覚するので社会的な評価を以前ほどは欲しなくなる傾向が出て来ます。ここで「究極のこと」を言ってしまえば、これで十分なのです。周囲から認めてもらったり評価してもらう必要は、最終的・究極的には「ない」とも言えるのです。分りやすく言うと、丁度、アクセサリーのようなものです。アクセサリーはアクセサリーであって、人が生きるうえでどうしても必要な� ��イテムとは言えません。どうしても必要なのは覚醒意識です。外部からの評価や認知はアクセサリーです。覚醒意識さえあれば、精神的な意味では人間社会を必要としません(物質的な意味では人間社会or自然界を必要とします)。

・人は元来は「自然的」な存在です。野や山を歩き、森の中で木の実を食べて狩をして生きているものでしょう。しかし、人間社会が形成され、掟・法・秩序が発生するのも自然でしょう。でも、ここから先は「人工的」になります。現代社会ではオフィスの中に犬や猫や小鳥はいませんし、1/fで揺らぐ風や木の葉や日光も味わえません。人工的に時間が区切られ、空腹感ではなく、スケジュールと相談して食事をします。いつも一緒にいるべき家族とは一緒にいられません。自然的存在としての人� ��の側はストレスで一杯になり、悲鳴を上げ始めるようになります。このように色々な側面があるものですが、ここでは「心理的な依存性」について述べております。
 「自然的人間」は、一人で野山を移動し、食料を確保して生きて行きます。私個人はどうやら、この「自然的人間」として物事を把握して生きているようだと時々思ったりします。というのは、人を見ていると「社会的人間」として生きている事が見られるからです。社会的に認知を欲したり(自己アゲ)、嫉妬したり(自己サゲ)、人をヨイショして近未来の利益を欲したり(人をアゲ)、人を押し退けたり(人をサゲ)等々、それはそれで有り得ることなのですが、「自然的人間」としては、時としてそれらが病的に見え・感じられてしまう時があるのも事実です。
 自然界の光や色や音などは周囲世界ではありますが、人工物ではありません。人工環境よりも覚醒意識に寄り添う環境です。人間社会への過剰な認知欲求=依存性は覚醒が不足している(自覚が足りない)事を示しています。覚醒の王道は自ら覚者となることであって、社会から認知・評価を受けることで自分の精神をその関係性に依存させることではありません(究極的には)。人は覚醒しようとします。それが正しく出れば、真に自ら自覚体験を深めて行きます。裏目に出ると社会の中に自分を探すようになります。そうやって周囲の人々と競争し始め、社会的な自分の確認をすることが「全て」となるのです。以前、「関係性に埋没しないように」と言いましたが、このような事を言っています。自分は本当は内側にしか見つから� ��いのです。
 とは言っても、若い人の場合、成長の過程で、周囲社会すなわち友達などとの良好な社会的な関係を持つ事は大切な事です。そのような関係が持てれば、イジメもなくなるでしょうし、人間社会の病的な側面はかなり改善されるものと期待されます。これは精神的に周囲への依存性が高い(若い)時期だからこそのセラピーになります。勿論、全ての人に共通の肯定的側面であることは所謂いわゆる当然のことでしょう。ただ、ここでは「究極の事を言おう」としているわけです。社会的関係性が良くなっても、それは関係性の次元の話であり、相互依存=非覚醒として分類できる領域ですから(決して否定するものではございませんが)。アクセサリー的でしょう(アクセサリーは、無いよりは あったほうが良いでしょうし)。そのような平和な時代が訪れても、やはり人は「真の覚醒」を求めるので、社会的な認知を得るための競争は眠りであるとの側面が残ります。全ての人が同じように平和であることのほうが確率的に小さいでしょう。良い事をしてても非難される等の難儀な立場にあるような人も出てくるでしょう。そういう人は「人から」ではなく、自分で自分を認めて(心理的に)自立するのです。「究極の事」を述べる事が今のテーマです。「互いに仲良く(内実の無い場合の形骸として)」というのは一見、道徳的なようですがアクセサリー的でもあり得ます。

・人が社会の中で何かを行ったり、あるいは誰かに接近したり、人々の歓心を得てなおかつ、人心を所有したり等々、本人の意識は多分、常に利益を 欲している為にそのように動いているのだと言えると思います。「物質的利益」は、これはしょうがない。物理的制約というものです。食事をしなければ死んでしまいますから物質的利益は必要です。賞賛、名声、権力等「精神的利益」を周囲社会から得ようとするのは自分を外部に見つけようとしているのです。これも眠りの一種になります。究極を言えば、人が生きて行く上で「絶対必要」とは言えないものです。


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・また、社会的依存性の強い心理傾向の人が作り出すネガティブな側面もあります。嫉妬や偏見や魔女狩りです。自分が社会に位置を占め、縄張りを持って(=依存して)いるがために、それを超える人が出てくると、自分と比較して嫉妬します。そういう杭が出てくると「彼は女に興味が無い」などと有り得ない考え方を社会に流布して叩き始めます。嫉妬の対象が道を歩いているだけなのに、わざわざすれ違う時に腕をぶつけて「痛ぁ〜い!」と大声を上げて、のけぞって、ぶっ倒れて、顎を外して開いた口が塞がらなくなって(^^;先ず被害者になろうとします。そうやって彼/彼女を加害者にして孤立させようとします。なぜなら、「狩る側」と しては、先ず被害者になる事で、「社会という自分」を守る口実が得られるから。このような「狩り」をしがちなのは、「自分が社会の中にある」からでしょう。本当は、自己存在とは内なるものです。しかし、執着が強くて手放せないのです。

・よく、自分と個人的に関わる人の事は何も言わないのに、個人的に関係しない人のことは中傷したりする人がいます。また、噂話を捏造して流す人がいたりします。あるいは、人に対しては「真実を述べよ」と追及するにも関わらず、自分についての真実は述べずに「良い関係性」ばかりを周囲に望むようなアンバランスな人もいます。これら全ては「自分の思った通りに周囲社会をセ(ゲ)ットしたい」という性向です。これらのような性質が出てくるのは、自分を(ある程度)外側に (本能的に)求めた結果です。覚醒意識という究極的な事から派生することを言えば、周囲からの評価がどのようになっても、認知とはすなわちアクセサリー領域なので、特別何をどうこうさせようと思い「執着の強さゆえに発想する」ようなことはしないでしょう。ただ、問題が心理的依存性のみならず、物理的な被害に及びそうなら、社会状況の保全を意図する事はあってしかき権利ですが。

 このように、覚醒意識は人が向かうべき究極の方角なのです。しかし、いきなり全面的に覚醒するわけにも、性格が変化するわけにも行きませんので、要は「知っている」だけで(変な新興宗教等により)おかしな方角を向くことは避けられると� ��う期待値は高いと考えるものです。今回は覚醒意識そのものを述べたものではなく、派生する考え方から述べたものです。(200703262330)

 思想より感情が大切というのは良いと思います。その理由は、「教え」とか「教義」とかの側面が暴走し過ぎていたのも原因の一つだと思います。(人間にとって)「必要な感情」は生かすべきでした。
 しかし、最近の傾向は、エゴの感情をそのままにしたいという動機で、(人間にとって)「必要な思想(=正論)」まで取り払いたい人が、感情善説を「利用している」精神構造があると思います。(200304080206)

 下記で「王制」とか言いましたが、私が王になるとかいう発想は、神に誓って存在しませんでした。ちなみに、日本国天皇も意識にありませんでした。私の意識の中には、もっと内面的なテーマに焦点がありました。でも、それでは、まるで私が本村氏を「利用した」と言ってるのと同じじゃないですか。何故そのような事を確信できるんだろう? 何故疑問があるなら直接私に聞かないのだろう? タイプしていた時点でそんなことは一切、心の中にはありませんでした。(200203302353)

 私は、本村氏が加害者に復讐する事は「正しい」と思います。ところが、この種の領域は非常に個人的でディープであり、法律なんかでカバーできるものではない。だから社会システムが全てではないと思います。そういう表層的ではないディープな領域を扱えるようにするためにはどうしたら良いか? それは、「王制」だと思います。王の暴走を繰り返さないという必要上、国民主権だが、王という「個人としての代表」が、本村氏のような方に「復讐を執行して良い!」と許可できるのが王制の良い所だと思います。このような場合は、国民だってほとんど反対などしないと思います。法律では扱えない範囲を扱い、対処できるようにするための王制は「必要」ではないか? 王は国民の為にあるのであり、逸脱は許されない� ��世論が(例えば)70%以上支持しなければ王の命令も効力が無いというような縛りは必要でしょうね。(200203230106)

 下記で「自発的死刑」について述べましたら、変な夢を見ました。私は科学者で、良かれと思って研究していたものが、原爆として悪用されたアインシュタインについて思ってました。その近くでは巨大な気味の悪い虫が他の小さな気味の悪い虫を次々に食べて増殖中で、そこで目が覚めました。それで、人間としては、戦争とか死刑などのネガティブな側面を社会システムに組み込まない方向で考えるべきだと思いました。テレビなどの公共的なメディアでも、あまりネガティブなことは流さずに、皆が楽しいという方向へ自然に向かうものだと思います。ネガティブを公共のものとするのは、影響が大きすぎるという側面があると思います。

 それで、やはり、社会システム(法律)に死刑などを組み込まないほうが良いと思いました。ただ、社会システムが全てではないと思います。政治でも「大きな政府」を戒め、地方分権を進めて、小さな政府になるほうが良いという事になってるのと同様、ここでも、社会システムという権力(?)が余りにも大きくなっているのではないかと思いました。死亡事件の被害者遺族の方々に対してまでも、その公のシステムが規定してしまうのか?と思う。これは、ある意味、「究極の失礼」ではないか? そこで、公のシステムで死刑を既定しない代わりに、被害者による復讐を公のシステムは受動的に認めるという立場になるという選択はどんなものかと思います。犯人がとった手段及び、もたらした結果までなら、被害者遺族が「執� ��」できる、というもの。つまり、死亡事件であれば、犯人は遺族によって殺される場合も認められ得る、というもの。その場合、行った結果は犯人と同じだが、動機は全く違う。また、犯人としては、そうなる事はどこかで分っているはずであれば、転生後の始末も良いと予想します。当事者主義であれば、当の問題を解消し易いかも知れないと思います。(200203151446)

 今日、3/14(木)の「ニュース・ステーション」で、自らの妻と11ヶ月の長女を殺されてしまった本村氏(妻は首を締められ殺害後、レイプ。長女は一度床にたたきつけ、それでも母親の死体にすがりつくのを、首を締めて殺害)が出演されてました。そこで、注目すべき御意見が述べられてました。「犯罪少年が、人として真に悔いる心を持った時に、死刑を自発的に執行する」という御意見です。下記で、「一応」、死刑反対の立場だけ(王仁三郎師に倣って)述べてましたが、確かに、本人が望む(=悔いる)のならば、死刑はあり得ると思います。でなければ、本人は反省などしていないままだということです。ということは、生きている限りは改心していないというレッテルを背負って生きるべきだということです。

 それから、「無期懲役」という判決が出てもその被告は、大人は10年、少年は7年で社会に出てくるそうですね。その人間がどのような過去を持っているのか、周囲の人の知る権利は無視されたままなんですね。驚いた。犯罪者が犯罪者だと皆がちゃんと情報公開というサービスにより、知る権利が満たされることのほうが先だと私は思います。確か、アメリカは出所者に関する情報公開サービスが実行されてましたね。被告がその後も生きるのであれば、周囲社会から拒絶されながら生きて行くというのは、あまりにも当然だと私は思う。人を殺した人でなしは、ある程度のこのような「自然的な」人権の剥奪は「当たり前」ではなかろうか。そういう情報公開を飽くまで「しない」のであれば、服役でしょ。世間の 怒りと罵声が常に届くように服役するのが正しいと思います。むしろ、届かないのは不自然ではないか?

 ただ、冷静に考えれば、「自発的な改心(=死刑)」が理想ですね。だから、環境もある程度、守るべき? しかし、環境を守っていては、現実的に、本人は決して死刑を望まない。ということは、やはり「生き地獄」として、世間から一生、責められ続けるべきなのだと思う。社会制度的・形式的死刑には「一応」反対論者でしたが、本人が改心した死刑執行はあり得ると思います。(200203150045)

 私の性格形成の途上では「憤怒ふんぬの力」が結構使われて来ましたので、その傾向がよく表れると思います。「私は〜しない」という、「怒りのような感じ」がよく表現の中に出てくると思います。でも、私だけでなく、人はそれぞれの「美意識」で生きていると思います。もし人が、金銭ではなく美意識を優先的にして生きるようになる人が増えてくれば、今よりは望ましい社会・雰囲気が出て来るのではないかと思います。で、出来れば、覚醒意識を「体験する」人が沢山出てくればとても良いことだと思います。(200202190044)

 肝心な人を忘れていました。私が覚醒意識を体験するに至ったのは、UFO研究界では有名なコンタクティーのジョージ・アダムスキーという人の著書(「生命の科学」など)の中に書いてあった「意識的意識」の記述が切っ掛けでした。グルジェフやオショー、シュタイナー、アダムスキーです。覚醒意識は、その瞬間を識別・認識できていないだけであって、普通、人は覚醒意識(=自分)を体験する瞬間があるのも事実です。「ああ、今日はなんだかみずみずしいわ」みたいに、深い影響・変化があった事を「後になって徐々に気づく」事が時々あります。ただ、覚醒の「その瞬間」に気づかないだけです。リアリティーの瞬間が覚醒だと気づく人が極めて少ないために、認識されずに通り過ぎてしまいがちです。(200202062042)


なぜ男性のリスクテイカーである

 それから、ラムサの本を読んでてそこに書いてありましたが、「人を見る時に、相手を"存在している"以外の(価値判断の)目で見てはならない」というのがありました。これも覚醒意識から出てきた言葉だと分かります。少々「グサッ」と来るのは価値観の世界ですね、私が(^^;。(200202022329)

 覚醒=「肉体を超える」と簡単に述べてますが、あなたが自己存在の「リアリティー」あるいは「ピチピチとした今」を感じる瞬間を体験したなら、その「リアリティーの瞬間」=「"元々肉体を越えてる自分"を感じた瞬間」です。覚醒意識について明確に言及しているのは、グルジェフ、オショー、シュタイナーなどです。クリシュナムルティーは私はあまり読んでませんが、彼は価値観の世界で究極の所にいるみたいですが、覚醒について明確に触れている箇所はないようです。少なくとも、言及を読んだ記憶がないです。(200201262247)

 "魂の指針【=覚醒意識】"をタイプして自分で啓発されました(^^;。私は結構、長く眠っていたように思います。覚醒意識(ブディ)の実現というのは、人類の本筋です。その「認識・知識・文化・宗教・道徳」等の外的伝承情報が失われても、また後の時代に本筋を発見する人が出てきます。そういう性質があります。幸いなことに、我々の時代に至るまでに、覚醒意識の認識は伝承されて来ました。覚醒意識という真実から出てきた教え・教義を持つ宗教ならば、覚醒とは何なのか分からない人を、覚醒へと導く情報パターンが含まれているので、その宗教が真実かどうかが分かります。例を挙げますと、

1.自分であれ

 これは、覚醒という内向きの観点からしますと「自分で"在れ"」という、「思考回路としては至極単純な事」を述べてます。「社会的観点」というものは、微塵みじんも存在しません。社会的な観点は、勿論ありますが、結果するだけです。すなわち、
 大体人の注意は外側へ向きますので、これが社会的な外向きの意味合いとして多くの人が捕らえる事になって来ると思われます。つまり、「まがい物の宗教や一時的な熱狂によって自分を失うな」という意味合いです。それで多くの人々は「いつも左右されない自分でいよう」という事になるのでしょう。覚醒意識というリアリティー=真の自分の中では、自分に魅せられるという意味合いで、心が惑う事はありません。言い換えると、砂鉄が中心の自己(磁石)の周囲に吸着されて統一するからです。これは、「惑わされないでいるというパターンを持続する」という「眠りの」状態とは全く違うと言えますし、紙一重とも言えるでしょう。

2.憎まず許しなさい[=執着を離れるという意味]

憎しみが深い人向け:
 これは、覚醒という内向きの体験からしますと、自分として「在る」瞬間に、今までは外部へ向いていた精神作用という砂鉄が、自分という磁石の元に統一された状態になります。その時、砂鉄(精神作用)は外部という磁力への執着が自然に消滅します。執着が、覚醒によって消滅したのを知って、お釈迦様は本筋(執着を離れるという結果を得た覚醒意識)を認識されましたよね。その「結果として」今まで憎んでいた人を許す気持ちになります。ただ、それは正確に言えば、(その時点では)拘りから離れた状態になっただけであり、それが許す気分に近いのは自然な事です。ただ、奇妙に思われるかも知れませんが、「許す気分」は相手を「真に許しているのではない」という事です。人を許したり裁くのは神だけがり行うものだからです。当人が相手への執着や嫌な記憶から解放されて自分になって自由になるのが、その本質です。相手の事はいわばどうでも良いことです。執着を離れた今後も、今までもそうであったように、神が裁くのだと思います。[イスラエル:パレスチナ]紛争の当事者全員が覚醒意識の瞬間を毎日のように体験出来るように皆がなれば、人々は真実を内側へ発見するでしょう。つまり、自分自身が革命ともいえる個人的変化を体験するのです。そのようにして「自分になった」人たちは、「敵を外的に罰する行動」を自然に止め(覚醒の瞬間が、執着を減らすから)、神へ裁きを預けられるようになると思います。なぜなら、覚醒意識は理論や哲学ではないからです。実際の「英知+力」で� ��るからです。「英知と力の十字」(神の愛)が人を変化させます。その部分的な体験としては、良い音楽を聴く、あるいは美しい絵を見る等という新鮮さと似ていると思います。ただ、覚醒意識の瞬間の中に含まれる英知は膨大であり、「全ての意味」とも言えますので、+と-が中和して無意味のようでもあり、両方共含んでいます。

憎しみが浅い人向け:
 覚醒意識によって人を許す気分になった時に、人を許すようになって行くのは(社会的な意味合いに於いても)まことに結構な事だと思います。ただ、「自分は人を許す人だ」という「社会的な自覚」が発生すると、そこから再び眠りに落ちることと思います。注意が、リアリティーではなく、周囲との比較へと移った時に「眠る」からです。勿論、「さあ、切符を買おう」と思った瞬間も、「さあ、出かけよう」と思った瞬間も、色々な瞬間が「眠り」を誘います。また、「人生の打撃」という神の裁きがあった時、到底、人を許せなくなる状況に置かれる場合も起こり得ると思います。そのような精神状況に置かれているのが、[イスラエル:パレスチナ]の状況だと思います。ただ、彼らも覚醒意識を体験出来るように自己想起を� ��れば、「自分になった人々」が、外的状況の無意味さと、内的状況(覚醒意識)の革命性を理解し、覚醒を認識した人が大勢になれば自然に止むと思います。なぜなら、外的状況の追求という虚しさから、内的覚醒の追求(ここには「亡くなった人との交流という現実」も期待できるかも知れませんが、飽くまでも自己の覚醒が基本となります)という実りある方向へ移るからですね。ただ、外的状況を「思い通りにしよう、従わせよう」とはしなくなっても、職業をしなければならないという外的リアリティーにも従うべき(従わざるを得ない)なのは言うまでもなく、それを虚しいと言ってるのではありません。苦しい場合の多い外的なリアリティーは今までと同様、あります。法律にも従うべきでしょう。わざわざ外的な問題を起� �す「必要(執着ではなく)」のある場合はそんなに無いでしょう。最も意義深い覚醒(執着を離れる事)へ向かえば良いのですが、ただ、人々は(幸せの原因たる)内的リアリティーの瞬間を、まだよく知りません。よく知られていないので、「敵を愛する」などという「とんでもない言説」とは一見、無関係に思える覚醒意識の実践(自己想起)という入り口から入ることで、憎しみを抱く可愛そうな被害者達は、彼ら自身の存在のリアリティーが彼らを救うようになります(この最後の部分だけは、「憎しみが深い人」宛)。その結果として社会的紛争が止まなくても、彼ら個人個人は(憎しみから)救われます。


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3.イエズス様:汝の隣人や敵を自分のように愛しなさい
 これは、覚醒意識をもたらす自己想起をする時に、「周囲の全ての存在(勿論、人間を含む)」が、まるで自分であるかのようにリアリティーを感じようとするし、また、そのような認識が結果するところから、覚醒と調和的な認識内容です。でも、よく考えると、「汝の敵を愛せ」というのは、私を含めほとんど全員の人にとっては無理があると思います。あまりにも内容が単純化されている為です。つまり、「相手を」愛するという外的対象を主人公にした表現になってますが、イエズス様のような方の内部に実現されていた真実(神=愛)が単純に外向きに表現されたものであったのは明らかだと思います。つまり、内向きの意義がその主たる内容です。内向きに表現させれば、「愛になった自分から」愛が流れるという訳です。� ��の言葉の程度を低くすると、「覚醒する為に、周囲を(人々を)まるで自分自身のようにリアリティーを感じよう」とすることで、実際には「自分を感じよう」とするので、自分の中へ潜って行くと例える事が出来ます。覚醒意識の瞬間が訪れ、[英知]を持つ[愛]の[力]の作用を身体に受けて行く事で、同時に神に繋がる第三の軸である愛が(自分の中に)パイプを太くするのだ思いとます。愛が自分を流れるということは、神が御自身を表現されているということですね。その、「無我の半面が言葉として表現されたもの」が、この言葉だと思います。表現が外的対象が中心になってますので、実現不可能に思えますけれども、自分の主人公は自分です。覚醒とは「自分になる」事です。「自分になる」=「完全に満たされる・� �足する」という事です。外的世界への「不満」は消滅します。(ただ、「必要な事」は、今まで同様、「必要な事」であるのは勿論です)つまり、人々の覚醒意識によって[イスラエル:パレスチナ]紛争も解決への希望が見えて来ると思います。なぜなら、誰も不満がなくなるからです。誰も外的世界への執着から離れて行くからです。
 ちなみに、[無我でない自分の半面]では、「食事がしたい」「SEXしたい」「お金がほしい」と思うものであって、それらが消滅する事はありません。だから、人は常に外部に影響されます。こちら側の自分としては「敵を愛したくない」のも当然と言えば当然です。しかし、覚醒の瞬間を重ねることにより、執着から離れるようになり、外部の事からは心が解放される方向となります。これは自然に「許し」「愛する」という下地を形成します。許そうと努力して許す形を取るというのとは違うのです。この場合、[相手を]「許す」「愛する」というのは、自分にとってはいわば、二義的なことです。第一義は[自分が]「執着から解放される」事です。「許す」「愛する」というのは砂鉄(精神作用)が外部磁力から自由になった� ��いう「結果的発露」であって、執着から離れているという状況が自分にとって意味があります。そこに神が大量に流れるようになって来ると、積極的な意志としての「愛する(主体は神)」状況になると思われます。ですので、イエズス様の言葉は高度過ぎて実現不可能に思えてしまうのだと思います。(200201222222)←この時刻、本当なので、ここらへんで校正は終了しとこう(^^;。

 [私の性格の偏り]のほうに、「許し」について「別の相」について考察しましたので、ここからリンクしておきます。(200210192257)

 2002.01.10(木)の「ニュース・ステーション」で死刑に関する特集をやってました。私は下記で、一応、死刑には反対の立場を表明しておりました。その根拠は出口王仁三郎聖師だった訳ですが、王仁三郎師によると、「悪行を行った人間を殺しても、すぐにまた生まれ変わって来て、同じ事をして周囲に迷惑を掛けるんだ」とのことで反対されてたという記憶が思い出されました。ラムサも同様の事を述べてます。すなわち、彼が地上にいた頃、戦闘で殺した者達が再び地上に戻って来て同じような事を行ってしまうという、高い次元から見えた事を伝えてくれてます。この種の要素が一つ見逃せないと思いましたので。述べておきます。(200201120004)

 私の感性では、レターを女性に見られても気になりませんが、男性に見られることはとても嫌ですね。(200111130106)

 気づくのが遅れたかも知れませんが、どうも下記の私の主張に対して誰かが異議を唱えているようですね。ということは、「倫理など存在しない」を自分の主張としている人が誰か居る、ということなのでしょうか?

 当たり前ですが、行動する時は、人は「どちらか」に偏ることになります。それは個々の人の個人的ニーズに基づくと思います(当たり前ですが)。例えば、金儲けで音楽をやるのか、金儲けを度外視して音楽をやるのか等、色々な側面があると思います。行動というのは人によって違います。一般的に倫理とは「自己利益の為に周囲社会を動かす」事を戒めると思います。逆に言えば、「全体の利益の為に自分が動く」というのが倫理的だと(一例として)言えます。これもヤジロベエとして考えるべきでしょう。いくら「世界の為に働く」と言っても、困窮する現地へ到着して「自分も飢えるべきだ」とか言って何も食べないで、そこまで自己利益を制限したら何も出来ません。当たり前ですが、自分の利益(この場合、食事)は得� ��上で、バランスよく行動すればいいのであります。上で「金儲けで音楽をやる」と言いましたが、これだって、生活が困窮してて食べるのがやっとの人の場合は、それで生計を立てるのは責められるべきことではないのも当たり前です。しかし、使い切れないほどの利益を得ているならば、そういう人が「金儲けで音楽をやる」のは倫理的ではない訳です。当たり前。倫理とは、そういう当たり前の所に存するのですから、私の言説の何に対して異議があるのかよく分かりませんが。それに、私の裏側で行われる言説に、私に対して確認もせずに同調する人々がいるというのも何か信じられない気がします。他にも、常々思うのは、女性芸能人への私の個人的なラブ・レターを回し読みして楽しんでいるのが、テレビのニュース番組を受� �持つニュース・キャスターや司会者達であったり、政治家達であったり雑誌編集者であったりする(このように断言する状況証拠が沢山あります)、この日本という国の構造ですね。なぜ、そのような侵害行為を止めようとしないのだろうか。他にも、相手に反論の機会を与えずに見えない所で異議を述べるのは倫理的ではないですね。人間には(知覚の)限界があり、つまり弱点があるのですから、それを「利用する」のは倫理的ではない。(200110060053)

 9/27(木)の「WBS」の間に新番組のCMがあって、その中に「完璧な倫理的規範はどこにも存在しない」という言葉が示されてましたが、これはちょっと変な言説だと思う。人は+と-の中間にあり、ヤジロベエなのですから、大体、中庸(心の平安、動と静の中間、等々)に落ち着くのが正しい存在なのですから、「完璧な」をつけることで、それはあり得ない事になると思う。もっと現実的に誠実な議論をしようとしていれば、「[完璧でない中庸的]倫理的規範は確実に存在する」と言えます。気になるのは、上記の言葉で人々にそのような印象を与えようとした「意図」が何なのかと思う。倫理の根拠として、より原理的な事を言えば、霊性=蓮華の発達という点についてシュタイナーが述べております。[性とは]にも少し触れました。

 中東情勢は今一度、タリバンとパキスタンの対話の試みがあるそうで、それも倫理的な試みだと思います。(200109280053)

 前回の書きこみで、社会の倫理の一つとして「平等性」を挙げましたが、それは飽くまで外的・世的な側面ですね。精神的・霊的な側面で言うと、人生はそれぞれの魂の生まれてきた課題があるそうなので、故に、人生は不平等になって当然と思います。生まれて来る家系とかの点では、機会不平等ですね。でも、人の肉体が共通の形をしている点は、魂にとっての「機会平等」ですね。肉体とは人として生きる基本中の基本ですね。この人体の遺伝子操作に関する倫理は「平等性」は大切と思います。(200008080351)


 遺伝子を操作して人がそれをコントロールしても良いのかどうかという倫理の議論があります。倫理とは、人が従うべき宇宙(神)の規則ですね。厳密に言うと、「宇宙の法則」と「人の法則・倫理」があります。
 「宇宙の法」とは、それが現に実行可能かどうかという現実で判断できます。遺伝子を操作しようと思えば、操作「出来る」のです。この(3次元での)現実が意味するものは「神のお許しが出ている事柄・領域」だということです。極端な事を言えば、3次元世界では「何をやってもいい(神の視点では)」のですね。現に、人はやろうと思えば、何でもできるのです(物理的な意味では)。しかし、例えば、1+1=2という法則はいくら人が変えようと思っても全く変わりません。つまり、人が関わる事は「許されてない」訳ですね。人を殺そうと思えば、それも(3次元では)実行可能ですが、これは下記で触れてあります。
 次に、「人の倫理」の立場から言えば、例えば、「ある人々が貧しく、苦しいにも関わらず、他の特定の人々が裕福である」というのは、人として是正すべき事柄です。貧富の格差を縮めよう=平等の考えは人道に沿ったものです(人道の例)。遺伝子を操作するにしても、人の姿は既に「腕が2本」とか「足が2本」とか決まっている訳です。それを崩そうと思えば、崩せるのでしょうが、たとえ宇宙の法則による許し(=実現できる)があるとしても、人道的には許されない事に近いものですね。つまり人道である「平等性」を逸脱しますから。でも、これは飽くまで「人道」ですから、人類の意識の進歩によって変化する可能性もあります。例えば、意識が進んだ人類があるとして、もはや、人は、各自が自分なりの「突出した進歩� �を皆が許してくれる時代であるとしましょう。そんな意識の社会ならば、例えば、腕が4本の人型を作り出したり、IQ>300のような頭脳を持った人類を創造することも出来ると思います。でも、今はまだまだそのような意識段階にはないので、現段階の「人道(複数)」をよく考慮して、遺伝子操作が(人道的に)許される範囲を大体特定可能ではないかと思います。(200007270328)

 下記で「人が人を裁かないという道徳律」が導かれる過程を述べましたが、その過程は、実は、全体が「神に従おう」というトーンの元に展開したものだったのです。出口王仁三郎師は死刑には反対の立場を表明されてました。しかし、これがないと、被害者の安心も喜びもありません。被害者の怒りや哀しみはよく分かるつもりです。ですので、「神に従うトーン」を外して考えるとどうなるかを述べてみようと思います。実は、人が神に従うのはその人自身の為でもあります。「従わないよ」と言って、そのように勝手に振る舞っても、腕は2本だし、走ったところで、せいぜい時速40キロでしょう。そのように、人間とは限界のある事は言うまでもないことでしょう。どんなに人が神に逆らって人を殺しても裁いても肉体の生命 を奪うことが出来るだけに過ぎません。それ以上の裁きは神・法則の執り行う領域になります。だから、いくら人が神に逆らったとしても、神の目からすれば、大した事ではないということになります。人が人を裁いても実質的な裁きではなく、もっと重大な領域があることはあるという指摘です。でも、このような物理的に可能なありとあらゆることをされたのでは人間社会においては周囲の人は迷惑ですね。
 再び被害者へ目を向けると、私は一つの日本の旧来の社会的傾向があると思います。「人を殺して喜ぶな」という仏教的な観念です。でも、最近は、加害者の人権ばかりが守られるという実態がよく指摘されるようになって来たように思います。被害者に対しての理解が進んで来たのかも。死刑が執行された時の被害者遺族はどんなにか喜ぶことだろうと思います。これは善を好み悪を忌み嫌う「正しい人間の徳」の一環である事を忘れてはならないと思います。その喜ぶ被害者の姿に何か間違ったものを感じたとするならば、それが具体的な対象と結びついた反応をしているからです(「戦争終結への道」参照)。しかし、飽くまでも「善に喜び、悪を忌み嫌う」という人間的な傾向の一時的な相なのです。

 従って、死刑制度は、「神に従おうとする」人と「神に従わない」人との中間にあり、まさに社会的な制度なのかも知れません。ただ、出口王仁三郎師は反対を表明していたので私も「一応反対」を表明しておきますわ。(200002010440)

 また、人は「快」を求めますが、それは人の内部の(精神的な)エネルギーの問題です。「苦」とは、内部的に葛藤があるためにエネルギーが衝突して浪費の状態にある事です。快とは、エネルギーが調和的に働いている状態です。しかし、その「特定の快」も、やはり一つのパターンであり、やがては底が見えてきます。例えば、オレンジ・ジュースを飲むのが快であっても、毎日それを繰り返せば、何かが満たされて底が見えてくる事になります。その時はまた別の快を求めますが、それは大体同じ事です。なぜ人は快を求めるのでしょうか。それは統一した存在になろうとする傾向があるからですね。快を求める行為も段々と高度化します(ある程度まで)。最初は具体的な快であったものが、やがて「矛盾した言動はしたくない 」とか「人に親切にする事で何か満足感を得たい」とか「いやいや、もっと真に人の為だけに働きたい」とか「見返りを求めたくない」というふうに快も進化します。そのようにして人は快を求めます。それは自己として統一した存在を指向してるからです。そうすれば、エネルギーの内部的な葛藤は極力少なくなりますから(だから快を求める)。自分が統一できれば、エネルギーは最大効率で生かされ、環境に優しい人になるでしょう(^_^;)。

 このように人は潜在的に快という感覚を求めながら、顕在意識では上記に述べたような価値観を大切に(記憶に基づこうと)しています。ここまではまだ「価値観=信念=教義の世界」に生きているのです。ところが、全く本質的な事を言うと、人は覚醒を求めているのです。価値観的に自分を「評価」すると全く矛盾だらけであっても、存在においては統一しているのです。他者へ目を向ければ、全く正反対の価値観を持つ人がお互い、「存在して」います。このように自己の内部の矛盾でも、嘘をついたり言行不一致であっても、自己の存在のリアリティーに目覚める事は常に可能です。そのようなリアリティーの瞬間の内部感覚の状況は、価値観みたいな記憶の一つ一つは全く忘れ去っており、感覚の中は、そのリアリティー が現存して占める事になります。この時に人は「価値観を超えている」のです。そのリアリティーが快の源であり、苦の解決です。人は快というより、覚醒を求めていたんですね。快というより、覚醒を求めるならば、底は見えません。底を突き抜けてしまいます。つまり、人は霊界へと参入して行きます(霊界参入に関してシュタイナーの数々の著作を研究されるのが良いでしょう)。私も高校生の時に、自己の想起を行う事で、無限の空間に吸い込まれるという体験が始まっていたのですが([目次]>[宇宙人は地球に来ている(以前、私が配っていたチラシ)]を御参照下さい)、そう簡単には参入させてくれませんでした。非情な人生の試練に直面したのです。ある瞑想で失敗して死にそうになってからPTSDを患ったのです。その ショックはスブドなどで神の光を浴びることで癒されて行きました(約10年かかった)。当時、高校生の時、私が突然性格が暗くなってやせ細り始めたために、身近な友人たちには迷惑をかけたかも知れません。そのように、価値観的には矛盾しているように思っていた自分は、一つの存在としてリアリティーの中に今までもこれからも居る訳で、そのリアリティーに目覚めれば、そこから統一体になって行き、徐々に(自然に)言動もリアリティーから離れなくなるので、嘘も減り、言行一致になります。「存在」というのは強力です。それは認めるとか認めないとかいう心理(価値観)の問題ではなく、丁度、裁判で「証拠・事実」が提出されたようなものです。そのように人間(だけではありませんが)は創られています。リアリテ� �ーの元に統一されるのです。

 価値観の世界で行を積んで統一してからでもいいし、まず覚醒(存在)から入って徐々に価値観(プロセス)が統一されて来るというのもいいでしょう。快だけを求めていても行き詰まり、快を求めない事もちょっとおかしい。問題は快であるかどうかではなく、快の上位法則(リアリティー)に目覚めて(エネルギーが)統一されることですね。そうすれば、やって来る快は(適度に)受け入れ、去る快に(極端に)執着しなくなります。この時、「快」は人を導く役目から解放された、とも表現できます。勿論、それは当人の自由だから、思いっきり執着してみてもいいかもしれませんが(ただ、シュタイナーによれば、「だからこそ、全力で道を外れないようにすべきである」と強調しています)。このように存在(シュタイナー� ��言う「自我」)が目覚めると、人の中には「存在が浸透」し、今までの矛盾・葛藤だらけの精神(アストラル体=動物体)が自然へ帰ります(マナス)。放蕩息子の帰還です。存在はさらに浸透し、エーテル体(植物体)を変容させ(ブディー)、やがて肉体をも変容させるのでしょう(アートマン)。関連発言はこちらへ。「覚醒意識」とはこのように「価値」あるものなのです。それが「真価」を発揮するのは、それを自己内部に光らせた時です。それを生きる時に、人に聞かなくてもどんどん発見して行きます。あなたの道=光を見つけたのです。もう方便(宗教)の世は卒業です。それらの指標を(感謝しつつも)越えて行きましょう。(199908300412)

 道徳・倫理というものは、元々は、人が勝手に作り出したものではなく、人間存在から自然に発生してきたものです。


 人は自分の実在をありありと実感し、悟った時に「存在(自我)」に目覚めます。自分で「在る」道はここから始まります。価値観というのは、人によって違ったりすることはよくあります。私個人にも私個人の価値観があります。しかし、精神的な事柄について私が本旨というか、主眼を置いていますのは、「覚醒意識」です。「存在に目覚める事」です。道徳・倫理というのは、存在から生じて来るのです。この意味は、道徳・倫理というものは元々、記憶に基づく社会的強制・形式ではなく、自然と生まれてくる気持ちであったということです。このような本来的な愛の状態は、覚醒意識の体験から生まれてきます。

 ある一つの価値観を後生大事に守るという姿は何か特定宗教の信者を彷彿とさせますが、それはその人のそういう時期にある姿ですね。ただ、覚醒意識というのは、自己存在のリアリティーを強烈に自覚して「自分は実在しているんだ!」と感覚的に納得できる意識状態のことであり、価値観ではないのです。覚醒意識に於いては記憶とか思考とかは停止します。思考的な「意味」というものは消滅してしまいます。何も考えてないという状況に戻ります。これは「全ての意味」がプラスもマイナスも一緒になって無意味を形成しているとも言えます。故に、ここから色々な理解・悟りが発生します。覚醒意識はどのような価値観を持ってる人であっても体験し得ます。そのような信念とか思想とか記憶には関係ないからです(通常の意� ��合い・範囲では)。価値観を越えたものなのです。だから、これを価値観の世界に引きずり降ろさないでほしいとも思います。例を挙げれば「覚醒?そんなの知ってるよ。ハイアーセルフが目覚める事だよ」なんて言ってる人はまだ覚醒体験が無いと分かります。そのような言葉には、「特定の」イメージ・意味があるからです。覚醒意識とは無意味=全意味の体験です。特定の価値観を越えている為に、どんな価値観を持つ人の中にも目覚め得るのです。

 人それぞれが価値観を持ち、人が自分の価値観を広げようとするのも自然の摂理と思います。例えば、「暴力はいけない」という価値観は大部分の人に受け入れられる価値観です。でも、それは、価値観の世界なんですね。存在・現実に目を向けてみますと、そのような価値観を越えて、暴力は行われてしまっているのです。戦争もそうですね。実際あるというのが現状です。よく、「神が居るなら、なぜ戦争が止まないのか」と言われます。でも、それは神を価値観で捉えているからそう思うのです。ここで思考的に分かるのは、暴力も破壊も「存在だけは(神によって)許されている」ということです。同様に、「悪人」も「存在だけは許されている」という「人としての理解」が発生します。同時に「人が悪人の存在を奪う事は許� ��れていない」ということが導かれます。さらに「人が人を裁くことは許されていない」という道徳も発生します。以上のように、神に従うトーンの元に、リアリティーについて思考的に扱ってみるだけでもいくつかの道徳律を導くことが出来ました。でも、破壊が存在しているというのは当然と言えば当然です。細胞だって日々新たに造られると同時に、どんどん死んで行ってもらわないと、人体が正常に維持できません。価値観の世界に対応しておきますと、ここで言ったのは、悪人の存在が許されているという現実を強調する意図はありません。「人としての理解」では、悪人の存在を認めても、悪人の行動を抑制する事は、善なる他の人の存在を守るという上で当然であり、人として正しい事です。ただ、宇宙は、人ではなく、リ� �リティーが支配しているので、(人としては)残念ですが、悪人は存在はするわけです。
 また、「神に従う」というのも、このままでは価値観ですね。ただ、リアリティーが目覚めれば、それが自分に影響し、存在が浸透する(と言ってみたりも出来る)ので、その状態を「神に従う」と形容することもまた真であります。ここから言うならば、「神に従う」というのは存在から出てきた価値観であり、形式や記憶ではないのです。(199908260404)



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