2012年3月30日金曜日


</head><body id="readabilityBody" > <p align="center"><b><span> 生の交換、死の交換</span></b></p> <p align="center"><b><span>鷲田清一<br/> (大阪大学大学院文学研究科教授・臨床哲学;<br/> 同医学系研究科兼任教授・医の倫理学)<br/></span></b></p> <p align="center"><b>1</b></p> <p align="left"> 「身体髪膚之を父母に受く。敢へて毀傷せざるは孝の始めなり」ということばがある。これをかつて旧制高校の寮生たちは、「寝台白布之を父母に受く。敢へて起床せざるは孝の始めなり」と書き換え、その紙を枕元の壁に貼って、午前中の授業をサボタージュしたという話を聞いたことがある。冗談はさておいて、このことば、身体とはだれのものかという古くて新しい問題に、一つの忘れられかけている視点を思いださせてくれる。新しい問題といったのは、臓器移植の問題や、生前に遺体処理にかんする意志表明をしていなかった死体の処理決定権がだれにあるかという問題をめぐって、いま身体の所有権の帰属先がしばしば問われるようになっているからである。<br/>  さて、忘れられかけているその視点であるが、それはじつは西欧近代の所有権論をある意味で貫通している一つの観方に異議をとなえるものであるともいえる。つまり、所有〔権〕(propriété , property)という観念は、自由処分権(=随意性、disponibilité , disposability)という観念と等置できるという視点である。わかりやすく言うならば、「これはわたしのものである」、だから「わたしはそれを意のままにしてよい」(必要なら他人に譲渡してもよい)という考え方である。<br/>  西欧の近代という時代において、所有権の明示というのは、市民の個人的自由の根幹にかかわる格別に重要な問題であった。各人が身を削って産みだしたもの、つまり生産物は、それを生産した者に本来帰属するものであって、他人がそれを本人の意志を無視して自由に処分できるものではない。それはあるものの生産を目的として労働する者が、その身――それはかれのプロパティ、つまりかれだけが所有の権利をもっているものである――をついやして産みだしたものであり、したがってかれのプロパティに属する。他のだれもそれにみだりに触れたい、それを勝手に処分する権利をもたないということである。<br/>  さてこの考えかたを正当化する議論の典型とされるのは、いわゆる《労働所有論》とよばれる議論である。ジョン・ロックの名とともに思想史に記入されているこの議論、ある物を所有する権利をそれを産みだした者に帰属させるその根拠を、その生産という労働が労働する者のプロパティである点にもとめる。そしてその労働〔力〕がかれのプロパティである根拠を、労働がその一つの発現形態であるところのかれの身体がかれのプロパティである点にもとめる。ひとはみずからの身体にかんしては、疑いもなく、みずからの所有権=自由処分権を主張できるという視点である。<br/>  ここでは身体の自己所有権(self-ownership)が、所有権の最終的な根拠として呈示されている。が、そのことがほんとうは問題なのだとおもう。わたしの身体はわたしのものか? わたしのものとされるこの身体は、はたしてこのわたしが意のままに取り扱ってよいものか? たとえば、思いのままにそのシルエットをデザインしたり、装飾するためにその表面に「傷」をつけたり、その一部を他人に譲渡したり、みずからその生命を終わらせたり……。<br/>  ひとが「もつ」ことのできるもの、あるいは「所有」することのできるもの、それはガブリエル・マルセルも言っていたように、そのひとにとって何らかの意味で〈外〉にあるものであり、そのひとの外部にあって独立した存在をもっているものである、ととりあえず言えるようにおもえる。しかしその〈外〉ということが、じつは問題なのである。身体の〈外〉という意味なら、(身体の内/外の境界が、ふつうそう考えられているように、皮膚であるとすると)皮膚の外側ということであろう。そのとき、「わたし」にとっての外側が皮膚の外側であるとすると、「わたし」は皮膚の内側、つまりこの身体であると考えられていることになる。「わたしは身体である」というわけだ。これはとりもなおさず「わたしは身体をもつ」の� ��はないということである。<br/>  しかし、「わたしは身体である」ということには、抵抗がつきまとう。わたしの肢体からその部分を順番に外していったとき、たとえば脚を外す、腕を外す、下半身を外す、首から下をぜんぶ外すとするなら、どこでわたしはわたしでなくなるか? そのようなグロテスクな思考実験をするまでもなく、身体の変化は「わたし」を変えてしまうことはあるにしても、それがただちに「わたし」の変化として現象するわけではないのはたしかだ。たとえば事故で腕を失ったところで、それによって行動に制約は生じるものの、だからといってわたしが別人になるわけではあるまい。あるいはヘーゲルがあげていた例では、拷問を受けたとき、ひとは凌辱されているその身体をじぶんの所有物とみなすことで、かろうじてその責め苦に耐えることができる。凌辱されるその身体を「わたし」ではなく「わたしの身体」とみなすことで、つまりその身体の所有者としてじぶんを了解しつつ、「欲しければくれてやる」というふうに所有権を放棄し、拷問者に譲渡してやったとおもうことで、ひと� ��ぎりぎりのところで、かろうじて最後の主体性を護ることができるからである。<br/>  ところが、「わたしは身体をもつ」ということにも問題がないわけではない。というのも、「わたし」はその身体(という所有物)の外部に立てないないからである。身体なしに「わたし」は存在しえないという意味でももちろんあるが、それ以上に、身体ではない「わたし」にとって内/外ということは比喩的な意味でしか語りえないからである。内/外はそれ自体が空間的な存在についてしかいえない。所有が「わたし」とその外部に存在するものとの関係であるとしたら、すくなくとも「わたし」と身体とのあいだには所有の関係はなりたちにくいようにおもわれる。<br/>  のちにも言及することになるであろうが、マルセルが「身体とは〈存在〉と〈所有〉の境界ゾーンである」と述べたのも、おそらくはそうした身体の両義的なありかたをさしてのことであろう。</p> <p align="center"><b>2</b></p> <p> さて、身体はだれのものであるかということ、つまりは身体の人称性が問題になるのは、このような「わたし」の存在との関係においてだけではない。もう一つ、身体の時間的な存立という場面においても、それは問題になる。つまり、生が生でなくなる時間的な境界、つまりは死という、「わたし」の存在の際においてである。<br/>  「わたし」のいのちは死によって絶たれる。その意味で、「わたし」の存在は死によって限られている。そしてその死を、わたしたちはふつう、身体の機能停止の瞬間というものと対応づけて考えている。「わたし」の死とともにわたしの身体は死体になる。が、この死体を、「だれ」という人称性を解除された純然たる物質的身体(=屍体)とみなすかどうかは、けっして自明のことではない。事実、さまざまの文化がさまざまの死体観を編みだしてきた。<br/>  「だれ」としての「わたし」の存在が身体のなかの「脳」という部位に還元されて考えられているとき、そしてその機能停止をそのまま「わたし」の死であるとみなすそういう思考のなかでは、身体は人称的にニュートラルな空間として経験されていると考えることができる。<br/>  こうした人称的に無記の空間というものは、「死という鏡のなかで生命が眺められる」ようになった結果としてあるということを指摘したのは、「医学的なまなざしの考古学」という副題をもつ書物『臨床医学の誕生』のミシェル・フーコーである。<br/>  「二〇年ものあいだ、朝から晩まで患者の病床で、心臓病や肺病や胃病についてメモをとったとしても、それらの症状は何ものにも結びつけられないから、支離滅裂な現象の連続を示すにすぎず、諸君にとって、すべては混乱でしかないであろう。いくつかの屍体を開け。そうすれば、単なる観察では退散しえなかった暗闇が、たちまちのうちに、霧散するのが見られるであろう」という、十八世紀の解剖学者M・F・K・ピシャの言葉に添えて、フーコーは「生ける闇は死の明るみにおいて消え去ってしまうである」と書きつけている*1。いいかえると、病――それはいうまでもなく、生の過程のなかにある――という事態が屍体の秩序のほうから照射されることになる。屍体解剖によって確認される病理解剖学の視線に身体が射ぬか� �るとき、病の「持続する時間」が、解剖屍体の「静止した空間」に統合されることになるわけである。このように死のまなざしのなかにみずからの生を引き入れる文化について、フーコーはさらにつぎのように述べる*2。</p> <blockquote>われわれの文化において、個人について行なわれた初めての科学的ディスクールは 、この死という契機を通過しなくてはならなかった。このことは、われわれの文化に とって、決定的な意味をもちつづけるにちがいない。というのは、西欧人は、自己の 死に対する解剖ということにおいてのみ、自己自身を科学の対象として眼前に据え、 自己の言語の内部において自己をとらえ、その言語において、また言語によって、自 己に陳述的な存在をあたえることができたからである。「非理性」の経験から、あら ゆる心理学と、心理学の可能性そのものが生まれた。医学的思考のなかに死を統合す ることから、個人の科学と自称する医学が生まれた。さらに一般的にいえば、現代文 化における個性の経験は、死の経験に結びついている。(266)</blockquote> <p> ところで、臓器移植と脳死判定の問題をめぐって大きく揺さぶられることになった〈死〉という概念、それが現在、身体の人称性――「だれ」としての身体の存在――をも大きく揺さぶりつつある。脳死体とは、テクノロジカルに「発明」された生と死の境界領域である。生でも死でもない両義的な、ということは曖昧な領域である。そういう生と死の無記名な空間として、身体がテクノロジカルの視線のなかで「発明」されたのである。輸血、人工臓器、臓器移植、受精卵移植、胎児診断、CTスキャンによる検査、そして遺伝子組み換え操作などといった医療技術の装置のなかに、いよいよ深く身体が挿入されてきたのである。<br/>  これは、死が生の鏡であるだけでなく、生そのものが死のモザイクのようになってきたということ、つまり死と生の境界が画然としたものではなくなることにより、個人の存在を限るその輪郭のほうも根拠を失って、しだいに曖昧になっていったということを意味する。いいかえると、生の意味、個体としての同一性をめぐる本質規定そのものが問題化するような次元に身体が組み込まれ、個人の生を死との境界のほうから限るそういう視線が無効になってきたという事実を意味する。</p> <p align="center"><b>3</b></p>

2012年3月28日水曜日


コンドームを使用していても、根元部分から漏れた微量の精液で妊娠する事もありますから、
今回の案件も「可能性はない」と断言できないでしょう。

2012年3月26日月曜日


Part No          Description Quantity Price    
560008 WP-5 24 GPD Membrane w/ck valve  
This 24 GPD (Gallon Per Day) Membrane WILL ONLY fit the WP-5(#500032). MFG. January 2004 or After .

 
  $74.99
  
 
 
560006 WP-5 50 GPD Membrane w/ck valve  
This 50 GPD (Gallon Per Day) Membrane WILL ONLY fit the WP-5(#500032). MFG. January 2004 or After .

 
  $90.99
  
 
 
<input type="hidden" value="/watts/showprod.

2012年3月24日土曜日


「存在・覚醒意識」>「道徳・倫理・価値観」  人はまた、肉体(ゼロ位置⇒無限遠を見る立場)をまとった神霊(無限遠⇒ゼロ位置に注目する立場)[or 神霊を纏った肉体]とも言える訳ですから、当然、悲しい時は悲しく感じ、楽しい時は楽しく思うのが生理ですから、そういう気持ちの側面を否定するような「とんでもない事」は述べてはおりません。ただ、某神霊も述べていたように、悲しい時に、それをわざわざ強調・促進して嘆いたり、わんわんと泣くよりも、中庸ちゅうようを目指して「哀」に留めるというスタンスになって来ようかと思います。と言われなくても人は概して中庸に落ち着くものだと思います。ただ、若い人々は判断が極端から極端へ振れがちなので、補足する必要を感じてタイプしました。とは言っても、「中庸にしなければならない」わけでも何でもありませんので。中庸の道には「発見が多いよね」と言っており、 某神霊が述べていたと言っているだけですから。(200704192040)

 それから、「若いときに方針を決定すると、後でどのような結果が出て来るのか」を述べてみます。私自身はジョージ・アダムスキーの行動指針として「組織を持たない・属さない」という単独行動主義を中学生の時に取り入れておりますが、それは私の個人的な方針・価値観であって、誰もがそうすべきなどと言いませんし、主張はしません。ただ、組織の一部ではない自由な立場であり続けたことで、「色々な危険(とばっちり)」に巻き込まれることは無かったというメリットを享受きょうじゅしたと思っております。ただ、「本当の事を知りたくない、聞きたくないし、扱いたくない」という人々によって排除されるために、� ��立を深めるという立場傾向があり、人の性格によっては決定的に不向きな人もいるかと思います。つまり、覚醒意識について述べているのは、そういう社会的な連帯や孤立とはまるで無関係の事を述べています。孤立しろとも言ってませんし、連帯しろとも言ってません。ただ、覚醒意識は最も根本的な「存在性」の事柄であり、「関係性」の事柄が中心ではないのですが、「関係性」の捉え方を中心に据えてしまいますと、「覚醒=孤立」のように捉えてしまう傾向性が出て来るでしょう。そういう側面を指して私は「本能的に…」と述べております。否定しているのではなく、単に自覚することが大切なのです。ここらへんの本能的な部分から自由でいるのは「非常にシンドイ」ことです。若い人にはまず無理かも知れません。例え� �人から仲間外れにされたりすると「大変にシンドイ」と感じると思います。それは本能的に出る感情です。普通のことです。確かに関係性の立場から見ると「孤立の話」に思えるかも知れませんが、関係性の話をしているのではないのであります。しかし、人はそういう「存在性への自覚」が持てる可能性があるので、「本能的にシンドイ状況から、自由でいられる」という側面に注意を喚起しているのです。本能性によって「引き込まれ、絡み取られ、巻き込まれる」ようなことになり難くなるということを述べています。(200704192328)

 最近、私の中を流れ行く想念を共通の視点(覚醒意識から派生する視点)からまとめるようになって来ましたので、いくつかのポイント毎に、その視点からの分析を加えてここに陳列しておこうと思います。その目的は、「知っているだけでも得をする」からです。人の性格が一朝一夕に変わるようなものではありませんし、変えようとも思わないのが通常です。しかし、本当の事を「単に知っている」というだけで、人が「とんでもない方角へ進む」ようなことを未然に防いでくれる可能性が高まるだろうと想像してのことなのです。

・[社会的認知欲求からの自己開放(解法)]にも書きましたが、人はそれぞれ、ある程度、周囲からの心理的独立性はあります。とは言っても人間ですから、心理的依存がありま� ��。何か悪く言われると頭に来たりします。特に、何も悪くない(むしろ良い)にも関わらず、曲解されたり作り話を流布されたりすると一層、怒り(悲しみ)ます。
 ここで覚醒意識から派生する考え方を取り入れてみましょう。覚醒意識は「自分で自分を認めてあげる」という派生側面があります。これは強力です。真実は本人ならば誤解しようがありません。人が悪く言ったり作り話が流れてても自分は自分で認めてあげられます。特に若い人の心は周囲社会からの認知を必要とします。本人が十分に目覚めれば自分で自分を自覚するので社会的な評価を以前ほどは欲しなくなる傾向が出て来ます。ここで「究極のこと」を言ってしまえば、これで十分なのです。周囲から認めてもらったり評価してもらう必要は、最終的・究極的には「ない」とも言えるのです。分りやすく言うと、丁度、アクセサリーのようなものです。アクセサリーはアクセサリーであって、人が生きるうえでどうしても必要な� ��イテムとは言えません。どうしても必要なのは覚醒意識です。外部からの評価や認知はアクセサリーです。覚醒意識さえあれば、精神的な意味では人間社会を必要としません(物質的な意味では人間社会or自然界を必要とします)。

・人は元来は「自然的」な存在です。野や山を歩き、森の中で木の実を食べて狩をして生きているものでしょう。しかし、人間社会が形成され、掟・法・秩序が発生するのも自然でしょう。でも、ここから先は「人工的」になります。現代社会ではオフィスの中に犬や猫や小鳥はいませんし、1/fで揺らぐ風や木の葉や日光も味わえません。人工的に時間が区切られ、空腹感ではなく、スケジュールと相談して食事をします。いつも一緒にいるべき家族とは一緒にいられません。自然的存在としての人� ��の側はストレスで一杯になり、悲鳴を上げ始めるようになります。このように色々な側面があるものですが、ここでは「心理的な依存性」について述べております。
 「自然的人間」は、一人で野山を移動し、食料を確保して生きて行きます。私個人はどうやら、この「自然的人間」として物事を把握して生きているようだと時々思ったりします。というのは、人を見ていると「社会的人間」として生きている事が見られるからです。社会的に認知を欲したり(自己アゲ)、嫉妬したり(自己サゲ)、人をヨイショして近未来の利益を欲したり(人をアゲ)、人を押し退けたり(人をサゲ)等々、それはそれで有り得ることなのですが、「自然的人間」としては、時としてそれらが病的に見え・感じられてしまう時があるのも事実です。
 自然界の光や色や音などは周囲世界ではありますが、人工物ではありません。人工環境よりも覚醒意識に寄り添う環境です。人間社会への過剰な認知欲求=依存性は覚醒が不足している(自覚が足りない)事を示しています。覚醒の王道は自ら覚者となることであって、社会から認知・評価を受けることで自分の精神をその関係性に依存させることではありません(究極的には)。人は覚醒しようとします。それが正しく出れば、真に自ら自覚体験を深めて行きます。裏目に出ると社会の中に自分を探すようになります。そうやって周囲の人々と競争し始め、社会的な自分の確認をすることが「全て」となるのです。以前、「関係性に埋没しないように」と言いましたが、このような事を言っています。自分は本当は内側にしか見つから� ��いのです。
 とは言っても、若い人の場合、成長の過程で、周囲社会すなわち友達などとの良好な社会的な関係を持つ事は大切な事です。そのような関係が持てれば、イジメもなくなるでしょうし、人間社会の病的な側面はかなり改善されるものと期待されます。これは精神的に周囲への依存性が高い(若い)時期だからこそのセラピーになります。勿論、全ての人に共通の肯定的側面であることは所謂いわゆる当然のことでしょう。ただ、ここでは「究極の事を言おう」としているわけです。社会的関係性が良くなっても、それは関係性の次元の話であり、相互依存=非覚醒として分類できる領域ですから(決して否定するものではございませんが)。アクセサリー的でしょう(アクセサリーは、無いよりは あったほうが良いでしょうし)。そのような平和な時代が訪れても、やはり人は「真の覚醒」を求めるので、社会的な認知を得るための競争は眠りであるとの側面が残ります。全ての人が同じように平和であることのほうが確率的に小さいでしょう。良い事をしてても非難される等の難儀な立場にあるような人も出てくるでしょう。そういう人は「人から」ではなく、自分で自分を認めて(心理的に)自立するのです。「究極の事」を述べる事が今のテーマです。「互いに仲良く(内実の無い場合の形骸として)」というのは一見、道徳的なようですがアクセサリー的でもあり得ます。

・人が社会の中で何かを行ったり、あるいは誰かに接近したり、人々の歓心を得てなおかつ、人心を所有したり等々、本人の意識は多分、常に利益を 欲している為にそのように動いているのだと言えると思います。「物質的利益」は、これはしょうがない。物理的制約というものです。食事をしなければ死んでしまいますから物質的利益は必要です。賞賛、名声、権力等「精神的利益」を周囲社会から得ようとするのは自分を外部に見つけようとしているのです。これも眠りの一種になります。究極を言えば、人が生きて行く上で「絶対必要」とは言えないものです。

2012年3月22日木曜日


意外に思うのは、誰もが就職に強いと認める有名私大・国立大の多くがランク外、または下位に甘んじていることである。慶應大77.3%、早稲田72.4%はともにランク外。かろうじて上智大が52位(82.6%)、立命館が65位(80.6%)に顔を出している。国立大もしかり。金融・保険など大手一流企業への就職率の高さに定評がある一橋大で21位(87.5%)、大阪大51位(82.7%)、京都大74位(80.1%)。東大に至っては62.9%とはるか圏外で、順位も定かではない。