2012年3月30日金曜日
2012年3月28日水曜日
2012年3月26日月曜日
Part No | Description | Quantity | Price | ||
560008 | WP-5 24 GPD Membrane w/ck valve This 24 GPD (Gallon Per Day) Membrane WILL ONLY fit the WP-5(#500032). MFG. January 2004 or After . | $74.99 | | ||
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560006 | WP-5 50 GPD Membrane w/ck valve This 50 GPD (Gallon Per Day) Membrane WILL ONLY fit the WP-5(#500032). MFG. January 2004 or After . | $90.99 | | ||
| <input type="hidden" value="/watts/showprod. |
2012年3月24日土曜日
それから、「若いときに方針を決定すると、後でどのような結果が出て来るのか」を述べてみます。私自身はジョージ・アダムスキーの行動指針として「組織を持たない・属さない」という単独行動主義を中学生の時に取り入れておりますが、それは私の個人的な方針・価値観であって、誰もがそうすべきなどと言いませんし、主張はしません。ただ、組織の一部ではない自由な立場であり続けたことで、「色々な危険(とばっちり)」に巻き込まれることは無かったというメリットを
最近、私の中を流れ行く想念を共通の視点(覚醒意識から派生する視点)からまとめるようになって来ましたので、いくつかのポイント毎に、その視点からの分析を加えてここに陳列しておこうと思います。その目的は、「知っているだけでも得をする」からです。人の性格が一朝一夕に変わるようなものではありませんし、変えようとも思わないのが通常です。しかし、本当の事を「単に知っている」というだけで、人が「とんでもない方角へ進む」ようなことを未然に防いでくれる可能性が高まるだろうと想像してのことなのです。
・[社会的認知欲求からの自己開放(解法)]にも書きましたが、人はそれぞれ、ある程度、周囲からの心理的独立性はあります。とは言っても人間ですから、心理的依存がありま� ��。何か悪く言われると頭に来たりします。特に、何も悪くない(むしろ良い)にも関わらず、曲解されたり作り話を流布されたりすると一層、怒り(悲しみ)ます。
ここで覚醒意識から派生する考え方を取り入れてみましょう。覚醒意識は「自分で自分を認めてあげる」という派生側面があります。これは強力です。真実は本人ならば誤解しようがありません。人が悪く言ったり作り話が流れてても自分は自分で認めてあげられます。特に若い人の心は周囲社会からの認知を必要とします。本人が十分に目覚めれば自分で自分を自覚するので社会的な評価を以前ほどは欲しなくなる傾向が出て来ます。ここで「究極のこと」を言ってしまえば、これで十分なのです。周囲から認めてもらったり評価してもらう必要は、最終的・究極的には「ない」とも言えるのです。分りやすく言うと、丁度、アクセサリーのようなものです。アクセサリーはアクセサリーであって、人が生きるうえでどうしても必要な� ��イテムとは言えません。どうしても必要なのは覚醒意識です。外部からの評価や認知はアクセサリーです。覚醒意識さえあれば、精神的な意味では人間社会を必要としません(物質的な意味では人間社会or自然界を必要とします)。
・人は元来は「自然的」な存在です。野や山を歩き、森の中で木の実を食べて狩をして生きているものでしょう。しかし、人間社会が形成され、掟・法・秩序が発生するのも自然でしょう。でも、ここから先は「人工的」になります。現代社会ではオフィスの中に犬や猫や小鳥はいませんし、1/fで揺らぐ風や木の葉や日光も味わえません。人工的に時間が区切られ、空腹感ではなく、スケジュールと相談して食事をします。いつも一緒にいるべき家族とは一緒にいられません。自然的存在としての人� ��の側はストレスで一杯になり、悲鳴を上げ始めるようになります。このように色々な側面があるものですが、ここでは「心理的な依存性」について述べております。
「自然的人間」は、一人で野山を移動し、食料を確保して生きて行きます。私個人はどうやら、この「自然的人間」として物事を把握して生きているようだと時々思ったりします。というのは、人を見ていると「社会的人間」として生きている事が見られるからです。社会的に認知を欲したり(自己アゲ)、嫉妬したり(自己サゲ)、人をヨイショして近未来の利益を欲したり(人をアゲ)、人を押し退けたり(人をサゲ)等々、それはそれで有り得ることなのですが、「自然的人間」としては、時としてそれらが病的に見え・感じられてしまう時があるのも事実です。
自然界の光や色や音などは周囲世界ではありますが、人工物ではありません。人工環境よりも覚醒意識に寄り添う環境です。人間社会への過剰な認知欲求=依存性は覚醒が不足している(自覚が足りない)事を示しています。覚醒の王道は自ら覚者となることであって、社会から認知・評価を受けることで自分の精神をその関係性に依存させることではありません(究極的には)。人は覚醒しようとします。それが正しく出れば、真に自ら自覚体験を深めて行きます。裏目に出ると社会の中に自分を探すようになります。そうやって周囲の人々と競争し始め、社会的な自分の確認をすることが「全て」となるのです。以前、「関係性に埋没しないように」と言いましたが、このような事を言っています。自分は本当は内側にしか見つから� ��いのです。
とは言っても、若い人の場合、成長の過程で、周囲社会すなわち友達などとの良好な社会的な関係を持つ事は大切な事です。そのような関係が持てれば、イジメもなくなるでしょうし、人間社会の病的な側面はかなり改善されるものと期待されます。これは精神的に周囲への依存性が高い(若い)時期だからこそのセラピーになります。勿論、全ての人に共通の肯定的側面であることは
・人が社会の中で何かを行ったり、あるいは誰かに接近したり、人々の歓心を得てなおかつ、人心を所有したり等々、本人の意識は多分、常に利益を 欲している為にそのように動いているのだと言えると思います。「物質的利益」は、これはしょうがない。物理的制約というものです。食事をしなければ死んでしまいますから物質的利益は必要です。賞賛、名声、権力等「精神的利益」を周囲社会から得ようとするのは自分を外部に見つけようとしているのです。これも眠りの一種になります。究極を言えば、人が生きて行く上で「絶対必要」とは言えないものです。
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